由緒

備後護国神社では31450柱(平成30年4月現在)の御英霊を祀っています。

備後護国神社の由緒

備後護国神社は後述する「備後神社」と「阿部神社」を合併して昭和32年3月11日「備後護国神社」として設立したもの。
御祭神は国家公共につくして殉じられた備後六市八郡内の御英霊31450柱(平成30年現在)と大彦命を主神とした阿部神社の御英霊とを併せて奉斎してあります。
尚、境内地及び社殿の大部分は阿部神社より無償提供されたものであり、昭和34年7月1日には神社本庁より別表神社加列の指定を受ける。

現 本拝殿

現 本拝殿

元備後神社

明治元年旧福山藩主阿部正桓公の設立で防長の役石見国益田の戦及び渡島国(北海道)函館の戦に戦死した40柱の英霊を祀ったのが始まりで その後佐賀、台湾、西南の役、日清、北清、日露、日独の戦、満州、上海、日華事変及び大東亜戦争に至るまで国家公共のため殉じられた御英霊をお祀りしてあります。
最初は深津郡木ノ庄村。 吉津村入会の地(現福山八幡宮境内)に建立して「新宮」と称したものを明治26年7月福山公園地(現福山城跡)に移転し 同34年7月「官祭福山招魂社」と改称し続いて昭和14年3月招魂社制度が改正され 広島県には特に2社を認定備後國3市8郡(福山市、尾道市、三原市、深安郡、沼隈郡、芦品郡、御調郡、世羅郡、甲奴郡、神石郡、比婆郡)を崇敬区域すなわち祭神合祀範囲としての内務省令により、 「福山護國神社」と改称して指定を受け引き続き福山市沖野上町地先に芦田川廃川地2万坪を得て大規模の神域と荘厳な社殿の完成を見んとした矢先、 空襲による戦災を受け昭和20年8月8日石鳥居2基、神橋1基を残し一切を烏有に帰した。戦後宗教法人 令の施行に伴い占領軍の指示に従い 「備後神社」と改称し、城跡にそのまま存置してあったものを「阿部神社」と合併した。

元阿部神社

元阿部神社

元阿部神社

福山藩主阿部家の遠祖である人皇八代孝元天皇第一皇子高志道将軍、大彦命及び御子武沼河別命と豊韓別命3柱の神を主神とし阿部家中興の祖従五位下伊豫守正勝公を初め代々の祖霊を奉斎したもの。
建立は八代の藩主従四位下待従備中守阿部正精公が文化9年7月久松城北にある小丘松山を開拓して工を起こし旧領内の住民こぞってこれが工役を援助しよく10年6月竣工したものである。明治10年旧社名「勇鷹神社」を「阿部神社」と改称して県社に列格した。
なお、現在「県立青年の家」の場所には「松山天神宮」が水野家の創建で造営され門前町として天神町があったが、慶応4年辰年砲台築造のため「浜の護穀社」へ移転された。

阿部正弘公石像(福山城内)

阿部正弘公石像(福山城内)